「純粋に好きなことを仕事にするって可能なのか?」
「もしくは仕事を遊びのように楽しむことはできるのか?」
君もうすうす感づいているように、多分答えはYESだ。
とはいえ始め方もわからないし、踏み出す勇気が出ないまんま
気がつけばそろそろいい大人、って人も多いはず。
じゃあ、実際に自分なりのライフスタイルを見つけて
全力で毎日を遊んでいる大人たちに会ってみよう。
彼らの活動は、お金儲けが目的じゃなくて、
最高に楽しくて、最高に辛くても仲間がいるから乗り越えられて、
最高に気持ちよくて、最高に悔しくて、
うまくいったときはたまにモテたりもして、
きっとブカツみたいなものかもしれない。
今回取材したのは、都心の真ん中でビルを
ひとりコツコツとつくり続ける人物。
前衛的デザインが印象的なそのビルは
「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」といい、
ネーミングもまた気になるところ。
自力でビルを建てるなんて想像できる?
好きなことをとことん楽しむライフスタイルを
見つけるためインタビュー連載「大人のブカツ」vol.3。
やりたいことを考えてそのために生きるべき。
そんな社会を作るために、僕はビルを作り続ける。
- photography / 高浦宏幸 圓井宏和(pgns)
- edit&text / 霜嵜和敏
シュヴァルの理想宮をご存じだろうか。フランスで郵便配達夫として働いていた男が33年の歳月をかけ、たった一人でつくり上げた夢の宮殿のこと。その理想宮を彷彿させる建物があった。
東京・三田。足場が組まれた工事現場には「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」と書かれた看板が掲げられている。よく見ると打ちっぱなしのコンクリートにはさまざまな模様が描かれていて、形もかなりいびつ。その強烈な違和感は、両サイドに建つマンションのスタンダードさをより際立たせる。
このビルをつくっているのは岡 啓輔さん。設計から施工までをほぼひとりで行うセルフビルダーだ。
本当にひとりで作業されてるんですね。
岡:基本はひとりですね。でもちょっと人手がほしいなと思うときはツイッターとかで「明日コンクリート打ちます。誰か来ませんか? バイト代は出ませんが、夜は居酒屋でおごります、よろしく」って呼びかけて。そしたら誰かしら来てくれる。大体そんな感じでやってますね。
普通、家やビルをつくるのって、型枠大工や鳶など、技術が違うからそれぞれ専門職人が必要じゃないですか。でもイチからひとりでやるってことは、幅広いスキルが必要になってきますよね。それはどこかで勉強されたんですか?
岡:職人経験はね、ひと通り積んできたんですよ。22、23歳のときぐらいから、一個ずつ簡単なものからやってきて。まず土木の仕事からはじめて、鳶、鉄筋屋などをやりましたね。そのあと型枠大工をやって。この型枠大工が難しくて7年くらいやってました。
なるほど、それぞれノウハウを覚えて。
岡:そうそう。でも実は当時、別のことも考えていて。僕は高専を卒業してから住宅メーカーに就職してサラリーマンとして働いていたんですよ。でも、やっぱりもっと建築のことを勉強したいなと思って1年半くらいで会社を辞めて。そのあと、早稲田大学に建築家で石山修武さんという教授がいるんですが、その人の弟子にしてもらおうと考えて。
石山修武さんって、セルフビルドの先駆者的存在というか、その概念を思考し、拡張させてきた建築家ですよね。「幻庵」や自邸の「世田谷村」なども有名ですが。その石山修武さんのもとへ没脱サラして、弟子入りですか?
岡:そう。それでアポなしで会いに行って。研究室の前に2日間座り込んで弟子にしてくれって。でもダメだったんですよ。「弟子とかじゃないでしょ」って。「俺は早稲田で教授やってんだから、まず早稲田に入れよ」って。「いや、入れりゃ苦労しないよ、入れないから弟子にしてくれって言ってるんですよ」なんてゴネたけど(笑)。いくら懇願してもダメだった。断られたら職人になろうって決めていて、さっきの話につながるんですけどね。
なんか面白いやりとりですね。それで弟子をあきらめて、職人へと。
岡:弟子がダメなら、じゃあ職人になろうと。一時は型枠大工を極めて、“型枠の鬼”になろうと思ってました。そして安藤忠雄の弟子になってやると。
今度は安藤忠雄ですか(笑)。
岡:“型枠の鬼”になってしまえば安藤忠雄も欲しがるに決まってると。あの人より型枠のことを詳しくなったら、そりゃもう僕を採らざるをえないでしょ(笑)。
安藤忠雄に「ほっとけないよ!」と思わせる。”分はこっちにある”的な感じがいいですね。職人仕事は誰かのツテをたどって雇ってもらったんですか?
岡:いや、誰かの紹介とかじゃなく、いつも飛び込みでした。僕ね、結構計算高いんですよ。やるならやっぱり、それなりに技術の高いというか、いい現場で経験を積みたいじゃないですか。だから例えば、東京都庁の現場がはじまったなと思ったら、夕方5時くらいにその場所に行ってどこの業者が入っているのかヘルメットなどを見てパッとメモしてね。その頃ネットもなかったんで、タウンページとかで調べて電話してました。求人案内なんて見ててもしょうがないじゃないですか。待っててもね。だって東京都庁で仕事が始まってるという事実があるんだから。ましてや都庁のように大きな現場だったら人欲しいに決まってるでしょ。そういう方法で仕事を探していましたね。
確かに受け身でいては何もはじまらないですもんね。チャンスも逃げていく。
岡:そんなことばっかりしてましたね。
いろいろな現場経験を経てこの「蟻鱒鳶ル」の着工に行き着いたんですね。ビルの名前は岡さんが命名したものですか?
岡:友だちにマイアミっていうとてもいい芸術家がいて、彼に名前をつけて欲しいと頼んだんですよ。「蟻鱒」っていうのは、“ここに在ります(あります)”という意味を込めて。肯定的な感じのね。「在るかもね」「在りそう」とかじゃなくて、存在を断言する言葉を入れたいと。「鳶ル」にかんしては、彼が「トン」がついてるものは一流だって言うんで(笑)。ほら、いいホテルって名前に「○○トン」ってつくじゃないですか。ヒルトンとかシェラトンとか。トンがつくホテルはイケてる感じがするからって言われて、僕もじゃあいいよと。
そういった小ネタもありつつ。しかし、この漢字の並びって意味深ですよね。
岡:僕がカタカナより漢字がいいって言ったんですよ。それでなんとなく動物の名前にしたいな、と。アリは「蟻」。マスは魚の「鱒」かなって。トンまできてたら、「鳶(とんび)」だなやっぱりと思ってね。この動物たちって、世界中のどこにでもいて、かつ、ショボいやつらなんですよ。
ショボいというと?
岡:蟻はまず小さくて踏んづけられたりするでしょ。鱒ってね、川にのぼっていく魚のことを全般を指すんですよ。そんな雑な呼び方でね。それで鳶(とんび)ってこれがまたショボいんですよ。鷹とか鷲と全然違って、生きてる動物を捉える能力がないんですよ。人間が捨てたゴミとかしかとれないから、山でも海でも人間の周りを徘徊して残飯などを探しているんですよね。そんなショボい動物が3つ並ぶのはいいなと。「三本の矢」ではないですけど。
なにかいろいろと想像させるネーミングですね。でも、なんでひとりでここを手掛けようと思われたんですか?
岡:きっかけは「家でも作ろうよ」という嫁のひと言。でもそのときはひとりでやろうなんて思ってなかったけどね。手伝いにきてくれる人と一緒にみんなでワイワイと作ろうと思っていました。
意外と軽いノリ。家1軒建てるって壮大な感じしますが、そうでもなかったんですね。
岡:僕はね、本当に能天気な性格で、「建築家になるぞ、おー!」 みたいになノリで20代は職人やりながら、全国を自転車で回って建築のスケッチしてたりしていて。もうね、イケイケドンドンだったんですよ。人生の不安とかも一切なく、余裕でしょって。そんな感じで生きてきたから、家を自分で建てることも別に大したことじゃないと思っていた。作業も楽しいですしね。ただ、ここにたどり着くまでが本当に地獄だったんですよ。
自分は天賦の才能どころか 偽りの才能しか持っていなかった。
地獄? イケイケドンドンのノリで勢いよくはじまったんじゃないんですか?
岡:もちろん「家作ろう」って言われたときは「おう! 任せとけ」みたいなね。1級建築士も持っていて、現場経験もたくさん積んできた。自分は超イケてるやつだと、3年くらいあれば余裕でしょって思っていた。土地も買ったし、あとは設計図を描いて工事をはじめるだけ。でもね、それがまったくできない。
できないというのは設計図が描けないということですか。
岡:そう。設計に4年を費やしたんですよ。
えっ、4年?
岡:これが地獄の日々でね。どう設計していいかさっぱりわからなくなってしまって。
いざ自分の家を手掛けるってそういうもんなんですかね。理想がどんどん膨らんでいくとか。
岡:というよりね、自分が何をしたいのかがわからなくなっていた。僕はね、学生のころから設計が得意でよく褒められていたんですよ。どこいっても評価されて、自分でも「俺、設計できるぜ」なんて思っていたくらいで。でもよくよく考えてみると長けているのは「コピー能力」だったんだなと。瀬島和代風や安藤忠雄風にデザインするとか。それをちょいとアレンジして設計を描くとか。そのぐらいは簡単にできて、やれば褒められる。だけど自分は何なのかって問われたら、わからくなかった。そこを考えないとスタートもできないなと。
自分がなにをしたいのかを整理しないといけない。
岡:そうです。そこから毎日ひとつずつ考える作業を続けました。例えば2つ好きなモノがあった場合どっちがより好きなのか。その理由は何かを明確にしていきました。今までは、「両方好き」で終わらせてしまっていたものをしっかり仕分けして。そしたら、だんだん方向が見えてきた。自分がやりたい建築ってこっちだなって。そうこうするうちに4年が経っていたんです。
本気で何かと向き合うときには、それぐらいの時間を要しても不思議じゃないかもしれませんよね。でも正直焦りはなかったんですか。周囲の目とか。
岡:焦りはなかったですよ。でもおおかたの人は、「岡はもうダメだ」って言ってましたね。土地買って4年間もなにもしないってありえないでしょって。でも中には、「いや岡は大丈夫だ、死んでないよ」と言ってくれるやつらも数人はいた。「なんのことはない。岡さんくらいのことをやろうとしたら、考える時間に数年費やすのは当たり前だよ」って。
そこでよく折れなかったですね。
岡:一生懸命考えて、考えて、嘘のないように作ろうと思っていたので。自分が本当にやりたいことを、間違わずにやらなきゃないけないと。論理的に考えてうんぬんではなく、胸に手を当てて、これでいいのかとね。今でも煮詰まったときは、4、5日ほったらかして、もう一度自分に問いかけて作業をしてますから。
時間は掛かっても、ひっかかりを残したまま先には進めないと。
岡:そうですね。余裕こいてゆっくりやっているように見られているけど、そんなことはない。ずっと焦りながらやってますよ。
完成予定はいつなんですか?
岡:一応10年を目途にしたいですけどね。今で着工から8年ちょっと。ここ2、3年で仕上げたいとは思っています。
納期がない分、モチベーションを維持していくのも大変ではないですか? それを支えるのはやはり、はじめたころの決意だったり、その4年という歳月のなかで固まった意思だったりするのかなと。
岡:まあコツコツやっていくしかないですからね。モチベーションどうこうじゃないですけど、もうひとつ自分のなかでひっくり返さないといけないことがあって。それはデザインなんでけどね。30歳くらいのころに、あるコンペに参加したんです。テーマは「夢のような建築」というもので。そのときに僕が描いたのは、ガラスの1万倍透明な直径100メートルの球体を堀り、中に部屋をつくるというもの。もちろん廊下とかもあるんだけど、透明だから何も見えない。外からだとまるで空を歩いているように見えて。すごい発想だってほめられてね。 でもそれはデザインから逃げた先のアイデアだったんですよ。壁や天井、階段ひとつにしてもフォルムや ディテールなどにこだわるのが建築家。それを一切放棄していた。建築のデザインがしたいと思ってこの世界に入って頑張っていたのに、いつの間にかデザインしたくないと思うようになっていた。これは大間違いだなと。自分の考えをひっくり返さないといけないと思って。恥ずかしくてもいいから形(デザイン)は見せようと。ずっと逃げててもしょうがない。それで「蟻鱒鳶ル」を作ろうと思った。本当の理由はそこなんですよ。
人生をかけてやりたいことを とことんやり抜いてみればいい。
本当の“豊かさ”はそこにある。
聞くところによると、岡さんは舞踏家でもあるそうで。舞踏って、麿赤兒(まろあかじ)さんとかがやっている、白塗りになって踊るっていう、あれですよね? 小さい頃からやってたんですか?
岡:いやいや、きっかけはほんとひょんなことで。僕の建築の師匠は、高山建築学校を開設した倉田康男という人なんですけど、師匠に「お前建築なめすぎと」といわれて。建築のことだけ一生懸命やってたら建築家になれると思う甘い発想はだめだと。「1年間、建築に関するあらゆること禁止」って言われたんですよ。それで、「暇です」って周囲に言ってたら、声を掛けてもらって。正直、踊りはちょっとって思ってましたけど。でも、自分が一番やりたくないことを1年間だけやるのはいいかもしれないと思って始めたんです。
本当に師匠のいうとおりにしたんですね。
岡:それで本当に1年で辞めて。
そこまできっちりと守ったんですね(笑)。
岡:ええ(笑)。そのあと自転車で旅に出たんですけど、東北の方へ向かっていて、福島あたりでね、ふと「本当にこのまま踊りを辞めていいのか?」って思ってきて。仙台に到着した頃には「いや、辞めたらだめだろう」って気持ちになっていたんですよ。普通だったらとっくに知っている、ボールをスコンッと蹴る気持ちよさだったり、ブワーッとジャンプする気持ちよさとかをひとつも知らずに大人になっていた。何かにのめり込む快感というか。踊りを通して、そういった、みんながとっくに知っていることを、やっと感じられるような気がして。そこから6年は踊りに通いました。
自分の価値観や考え方についても、舞踏からの影響はありました?
岡:学ぶことは多かったですね。ダンスって頭で考えて踊ったらもうだめなんですよ。お客にも見透かされる。自分の思考を行動が追い越していかないといけない。建築に置き換えて考えたとき、設計デザイン(設計)をしてから実作業(行動)までが遠い。設計者と作業員の距離も遠い、交流もないし。これじゃあいいものができるわけがないと。だから自分で設計して自分で作業するというスタイルを選んだんです。
確かに設計者が実作業をするケースって珍しいですよね。途中でバトンタッチするのが一般的ですし。しかしその分、どうしても齟齬が生じたり、言われたものをその通りつくるだけというか……両者の間に温度差があるように感じます。
岡:僕は色々な建物を眺めながら、いつも製図版を想像していた。製図版が街のあちこちにあるような感じで。でもね、どれも生き生きとしていないんです。それが嫌でね。だからもっと温度のある、生き生きした街を作りたいと真剣に思っているんですよ。
蟻鱒鳶ルをつくる目的ってそういう部分でもあると。
岡:さっきも言った通り、世の中をもっと生き生きとさせたい。だからこの建物で刺激を与えていければ、と。「こいつ、ちょっと変わったことやってるけど、ダセェな。俺ならこうやってカッコよくつくるのに」とかでいい。蟻鱒鳶ルを見て、「俺もやってやるよ」って少しでもそういう感情を湧かせたい。
自分の好きなことや、やりたいこと、何かを踏み出すきっかけになればということですね。
岡:〝働かさせられてる”んじゃなくて、〝働く”を選んでほしい。簡単な話ですが、楽しい仕事をするとかね、そういうことをやりはじめないとだめだと思っている。ほとんどの人は人生のど真ん中を仕事に捧げるんだから、仕事が面白くないと話にならない。経済の拡張ばかりいわないで、もうちょっと一生懸命やりたいことを考えてそのために生きないとだめでしょと。それが成り立つ社会をつくっていかないと。その流れを作るひとりになりたい。そういうことを頑張っていきたいと思っています。
お金儲けが目的じゃなく、もっと違う〝豊かさ”に満たされれば、自然と世の中は生き生きとし出すのかもしれませんね。
岡:自分のやりたいことはね、大失敗をしてもいいからやるべきだと思う。だめだったらそのときに「大失敗だったな俺の人生」って思えばいい。それも人生。まあでも、人の人生を指し示すような偉そうなことは僕には言えない。言葉なんかはとくにね。だからこうやって黙々と「蟻鱒鳶ル」をつくっているんですけどね。
1965年、福岡県生まれ。住宅メーカー勤務後、上京。建築現場で働き、土工、鳶、鉄筋屋、型枠大工など、現場経験を積む。1988年から毎夏、高山建築学校に参加。2004年11月、東京三田にて鉄筋コンクリート蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)をセルフビルド開始、現在建設中。